日本と台湾~106歳女性教師の手紙が88歳台湾人生徒に届くまで

3月も10日が過ぎました。今日は「東京大空襲」の日、アメリカによる民間人大虐殺というナチスと同じような戦争犯罪が行われた日です。国際法に違反していたのは圧倒的にアメリカであることが、民間人大虐殺である東京大空襲、名古屋大空襲、広島長崎への原爆投下などで改めてわかります。勝ったから犯罪をもみ消しただけ、それがアメリカという国です。

71年前の今日、アメリカの大虐殺により命を落とした多くの先人たちのご冥福を改めてお祈り申し上げるとともに、その御霊が安らかならんことを心から願います。

さて、年に一度か二度、拙ブログでは「春の珍事」が発生します。その珍事が昨日発生しました。何かといいますと・・それはご訪問者数が突然激増するということです。昨日のご訪問者数は拙ブログにしては2月の初旬に続く結構な数字となっていて、管理人である私が一番驚いております(笑)他の人気ブログとは比較にもなりませんが、こんなしょぼいブログにきて頂けることは本当にありがたいことです。

拙ブログは政治、社会、反日特ア国など様々なことを記事にしておりますが、昨年秋から皇室記事、それも天皇皇后というトップについてもかなり強い調子で書き始めました。そのことについて、様々なご意見を頂いておりますし、御心配もいただいております。

それも含めて、ありがたいことであり、私にとっては糧となるものです。皇室問題というのは本当にデリケートなものでもあり、現在皇室ブロガーと呼ばれる方々の精力的な記事更新を見るにつけ、本当に敬服するものです。これは私の場合でしかありませんが、皇室記事を書くということは本当にエネルギーのいることであり、その消耗は結構なものです。特に、私の場合は過激で下品な言葉もかなり使いますので(笑)だからこそ、皇室記事(特に天皇皇后批判)を書くためには、自分自身にそれなりのエネルギーを充填しておく必要がありますし、おそらく、他の皇室ブロガー様も身を削るような心地をもって記事を書いていらっしゃるのではないかと想像しています。(皇室記事については、是是非非でいきますし、天皇皇后だから何も批判してならないといった考えには賛同できませんし、それを考慮することはありません。)

そういうこともあって、皇室記事を連続更新できなかったり、表現が比較的柔らかい場合、過激さが不足している場合は、私自身のエネルギーが不足していると思って下さい(笑)

ということで、今日はいい話を。やはり、民主党や維新の会の合流に関する罵詈雑言、下品に言いたい放題、自称ジャーナリストの「ゲスの極み、ジジイ。こと売国鮮体、BKD 6」への罵詈雑言ばかりではさすがに下品ですから(笑)時にはほんの少しだけ格調たかくいきたいと思います。

今日は70年前に遡る日本と台湾のお話です。106歳の元教師と88歳の元教え子、そして宛先不明で止まった分厚い手紙を見て「大事なものに違いない」と直感し、現住所を探し出してくれた台湾の郵便局員の方たちの心・・・読んでいて本当にこちらの心が温かくなりました。同じように統治した朝鮮半島と台湾のこの落差・・やはり民度というのが如何に大事なことであるか、よくわかりますね。

以下、newspost7からの転載です。
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106歳女性教師の手紙が88歳の台湾人生徒に届くまで 2016.02.12 07:00

台湾の新総統である蔡英文氏は、中国依存からの脱却を掲げる一方、日本との連携強化に動き出した。彼女は戦前の日本統治時代についても、「日本人には誤りもあったが、台湾に対する貢献もあった」と冷静に評価する。新総統の誕生によって、日台関係は再び蜜月の時代を迎えようとしている。

 国を挙げての盛り上がりとなった総統選の期間中、実はもう一つ、台湾で話題を呼んだ“ちょっとした騒動”があった。それは、70年前に遡る日本と台湾の“絆”を、いまの台湾人に思い起こさせる話だった。

 騒動は、熊本県玉名市在住で106歳(取材当時、以下同)の高木波恵さんが出した1通の手紙から始まった。高木さんは1930年代、日本統治時代の台湾台中市にあった烏日公学校(現在の烏日小学校)で教鞭を取り、主に小学2~3年生の台湾人生徒を指導していた。

 昨年2月、台湾で大ヒットした映画『KANO』の日本公開を知った高木さんは、久しぶりに台湾の教え子たちに手紙を書いてみようと思い立った。『KANO』は日本統治時代の台湾に実在した嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)の野球部が、海を渡って甲子園に出場し、初参加ながら準優勝するまでを描いたスポーツドラマだ。

 実は高木さんは映画のなかで描かれている決勝戦を、烏日公学校近くの役場で、同僚たちとともに実際にラジオで聞いている。決勝戦が行なわれたのは1931年8月21日。映画の公開をきっかけに、80年以上も前の古い古い記憶が呼び起こされた。

 教え子たちもすでに90歳近くなっており、消息がわからない者もいる。20年ほど前までは手紙の往来もあったのだが、1999年に発生した台湾大地震以降、完全に音信が途絶えていた。

手紙を送る相手は、級長だった楊漢宗さん(88)を選んだ。高木さんは目が悪いため、娘の恵子さん(76)に代筆を頼んだ。恵子さんは半紙と硯を用意し、筆先に墨汁をたっぷりとつけて流れるような筆さばきで、高木さんの語る言葉を書き連ねていった。

〈春節おめでとうございます。二月十八日、はるか日本国より久方ぶりに楊漢宗様へ〉と書き始めた手紙は、

〈なつかしい烏日公学校卒業の皆様、お元気でしょうか。お伺い致します。母がまだ元気で頭脳も確かなうちに娘として知らせてやりたいです〉

と続く。かつて可愛がった教え子たちの安否を知りたいという一心だった。住所は昔のものしかわからないため、無事届くかどうか確信はなかったが、祈るような気持ちで投函した。

手紙はすぐに台湾の烏日郵便局まで届いたが、そこで配達が止まってしまった。旧住所だったため「宛先不明」となり、いったんは日本に送り返されそうになっていたのだ。だが、ここで一つの“奇跡”が起きる。いつものように郵便物の仕分け作業をしていた郵便局員の郭柏村さん(28)は、宛先不明の郵便物を集める箱のなかに高木さんの封筒を戻したあと、封筒の存在が心のどこかに引っかかったという。

日本から届いた毛筆の分厚い手紙だったので、それを送り返してしまうのは、何かいけないことをしているような気がしたんです

 先輩職員にどうするべきか相談したところ、上司の陳恵澤さん(55)が近づいてきて、封筒をまじまじと見た。

一目見て、この手紙は大切なものに違いないと直感しました

陳さんは何としても今の住所を探そうと号令をかけ、郵便局員たちは配達の合間に、一軒一軒回っては聞き込みをし、訪ね先を探して回った。そして10日間ほどかけて、ようやく郭さんは楊漢宗さんの息子さんの楊本容さん(68)のもとへとたどり着き、手紙を届けた。楊本容さんが、パーキンソン病で入院中の父・楊漢宗さんに手紙を見せると、手紙を見つめながら息子の手を握り、口元で「家に帰ってまた見る」と囁いた。

この一件は、台湾で大ヒットした映画『海角七号』(※注)の「現実版」として話題を呼び、台湾の新聞やテレビなどで大きく取り上げられた。だが、物語はここで終わらなかった。

【※注:終戦直後の台湾で、日本人男性教師が、恋仲にあった台湾人女学生宛てに手紙を書いたが届かず、現代の台湾の郵便局員が、「海角七号」という日本統治時代の住所をたよりに送り届ける物語。日本でも2009年に公開された】

楊本容さんは病床の父に手紙を届けただけでなく、その手紙と写真をコピーし、同じ高木先生の教え子たちの家を一軒ずつ探し回り始めたのだ。

「父の代わりに私が力になりたいと思ったんです。教え子の方々は、『高木先生は106歳で今も元気にしているのか!』と言って驚き、とても喜んでいました」

楊本容さんはそう顔を綻ばせる。それから暫くたった4月上旬のある日、熊本に住む高木さんのもとへ、台湾からオレンジ色の分厚い封筒が届いた。そこには何人もの教え子たちの直筆の手紙と、現在の様子を撮影した写真が詰まっていた。手紙のコピーを受け取った教え子たちが、みんなで先生に返事を書いたのだ。

手紙に書かれていたのは、80年前に高木先生から習った、美しい日本語だった。

〈手紙見て心の中から感謝。恭喜申上ます。(中略)ひまがあれば、とうても(注・とても)先生にあいたい〉

〈「神様の御恵みを感謝致します」。何んとすばらしい事でせう!!(中略)学校で一番きれいな女の先生の高木先生は印象的で今でもおぼへて居ます〉

〈慈愛に満ちた優しい偉大な先生は私を副級長に選んでくれた事、顔にヒフ病の折メンソリターム薬を頂いた事、体格の大きい同級生にいじめられた事、受学課外に算術を教へてもらった事、まづしい家庭に生れた私に着物も頂いた事は電影の如く頭上に浮んで今でも先生に感謝しています〉

教え子のひとり、顔にメンソレータムを塗ってくれたことを書いていた楊爾宗さん(88)に会いに行くと、力強い日本語で言った。

「私のなかでは、高木先生は私の父親よりも親しく、母親よりも感謝しているぐらいなんです」

公学校2年生のとき、楊爾宗さんには忘れられない思い出がある。寒さが厳しくなった晩秋のある日、不意に高木先生に呼び止められた。見上げると、「楊くん、これやるよ」と言って、衣類を手渡された。学生服だった。国防色という今でいうカーキ色で、前は金属のボタンで留められていた。楊爾宗さんはその服を毎日着て、着られなくなってからもずっと保管し続けていた。

「高木先生は生徒を接近させようと、うちのような金のない家庭の子供には着物を買ってくれたし、顔に皮膚病があったときには、メンソレータムの薬を買ってくれた。そうして僕は先生を好きになり、勉強が好きになった」

 楊爾宗さんは戦後、工場経営に成功し、立身出世の人となった。「今こうして社会に立つことができるのも、高木先生のおかげ」という彼は、いまでも毎日、日本語で日記を付けている。

◆「先生と一緒に120歳まで」

こうして再開した日台間の恩師と教え子の交流は、手紙だけに留まらなかった。昨秋、インターネットを使ったテレビ会談が母校・烏日小学校の創立100周年の特別行事として企画され、台湾と熊本が結ばれたのだ。

台湾からは約20人の教え子たちが家族に送迎されて参加し、会場となった烏日小学校の式典用の講堂に集まった。前方に掲げられた大型スクリーンに高木さんの顔が映し出されると、みんな目を丸くして、食い入るように画面を見つめていた。

画面のなかの高木さんに向かって教え子たちが語りかける。

「高木先生、おめでとうございます!」
「先生を見ると、僕も本当に元気いっぱいです」
「先生と一緒に120歳まで生きていたい」

みな口々に感謝の気持ちや長寿を祝う思いを伝えたが、印象的だったのは、教え子のひとりが言葉に詰まった場面だ。

「これから私と友達は、高木先生の毎日、楽しく、元気で、過ごして、一生……一生涯……」

なかなか言葉が出てこない。頭の奥底に眠る日本語の記憶、先生の思い出を掘り起こしながら、心を込めて発していく。それでも言葉に詰まると、高木さんは、すべてわかってるよと言わんばかりに、

「ありがとう!」

と大きな声を出した。お互いさまざまな思いがあっても、言葉にすると結局「ありがとう」の一言にしかならないのだ。

この80年ぶりの“再会”は、台湾でさらに大きな話題となり、メディアもこぞって取り上げた。総統選において対中関係が争点となるなか、高木先生と教え子たちのエピソードは、日本との古い絆を台湾人に思い起こさせたのかも知れない。折しも台湾では、若い世代の間で日本統治時代を題材にした映画やマンガが流行っているという。

高木さんはこの騒動の間に、107歳の誕生日を迎えた。熊本の自宅に伺うと、「多くの人の手助けで交流が再開できてうれしい」と言い、丁寧にファイルに綴じられた教え子からの手紙を見せてくれた。その数は30人以上に上る。

高木さんは手紙を眺めては教え子たちの写真に目をやり、しばし物思いにふける。じっと見つめたあと、柔らかな表情でそっと写真に台湾語で語りかけた。

「……ポアピーベッサイレー(病気しないで、身体を大事にして)」

高木さんは日本に帰ってからの戦後70年間、毎朝晩欠かさず、仏壇に教え子たちの健康を祈り続けている。

文◆西谷格(ジャーナリスト。『この手紙、とどけ!~106歳の日本人教師が88歳の台湾人生徒と再会するまで~』著者) ※週刊ポスト2016年2月19日号
==============(以上、転載終わり)
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by ariesgirl | 2016-03-10 21:15 | その他 | Comments(0)